伯典よもやま話 その9 「周易苑秘病占秘解」より
今回は、「周易苑秘病占秘解」の「はじめ」と本書のはじまりの部分を紹介します。本書は著書名の通り、病気占断に関する専門書です。内容紹介については本サイトの「もっと学びたい方へ」の本著のコーナーをご覧いただくとして、この本を読んでみて思うのは、周易の実用性の高さと、伯典の易者としての実力についてです。掲載された病占例だけでも115件あり、それぞれの件において伯典が的確な判断を下していることが分かります。科学万能の現在、医者の判断が鵜呑みにされがちですが、誤診や処理の誤りなどは、それこそ毎日流されるニュースです。こうした悲しい出来事を見るにつれ、改めて周易を暮らしのなかで活用するメリットを感じる次第です。しかし、対象は病占です。素人が生半可な知識で取り扱うテーマではありません。伯典のように、周易で病気まで専門に扱いたいという方には、キャリアを広げる必読の書といえます。
はじめに
『易』の解説書は汗牛充棟であり、近時いくつかの新しい解釈の書も読んだが、本田済著『易』(中国古典選朝日新聞社)が、食道をコトンと音を立てて通って胃袋に収まるように納得できた。そこで私なりに反芻して、日常の会語体に置き換えてみた。そして判断に必要な卦爻を得るのに、分占法を考案した。こうして得た知識を活用して病気の判断のやり方を次のように述べる。
『易』の根本的考えかたについて
『易』は一字で三つの考えかたをもつ。
第一に易簡(いかん)、やさしい。第二に変易(へんえき)、かわる。第三に不易(ふえき)、かわらないである。
易簡は薬や健康食品について、利用者との相性や効果などに得た卦爻で、必要ないとか、いらないのではないかとみる。つまり余分なものを用いないのが最も簡短だからである。
しかし、熱があるとか、咳や痰が出るなど病気の人は薬を用いるのが簡短に当たる。私は予防的医療には慎重であって、インフルエンザやお多福風邪の予防注射など、幼児から高齢者まで、数多くの占断で不要というばあいが多い。幼児、生徒や学生、または社会人がほとんどであるが、手を洗うこととうがいで事なきを得ている。
変易は、自分が変わるか、相手が変わる意である。自分が変わるのは、病気なのに薬嫌いの人がいる。風邪で薬を用いないのは勝手だが、まわりの人は迷惑である。外出するからには、考えをかえて薬を用いないといけない。何事でもやりかたを間ちがえないとすべて結果がいい。
相手がよいほうへ変わってくれることはごくたまにしか期待できない。しかし、期待はずれの変わりかたはよくある。
健康のつもりでいた人が急に体調を崩すことがある。ふだんは医師とのつき合いがないので途方にくれる。このばあい買い薬などに頼らないで受診するといい。これが変易に当たる。
退院したあとの処置も大事で、いい加減だと、ぶり返したり余病が起きたりする。穏やかに恢復するのか、目先だけいいのか、ぶり返すのか、余病が出るかなどが変易である。
不易は、変わらない。だめなものはだめの意。どんなに危険な症状でも蘇生(たす)かる人は蘇生かる。または治療法を変えない。また新薬は用いないなど。病占に不易の占める範疇はひろい。不易の解(よ)みを間ちがえると、やらなくてもいい処置をして、後遺症に悩むことになる。たとえばアトピー症などのばあいである。
分占法について
昭和29年から易占を業としたが、当時の占法は病人がよくなるのか、よくならないのか、医薬の処置がいるのか、不用か、どうしたらいいかまでふくんで一筮で吉凶の判断をした。これでは初心者の私には判断がむつかしい。この占法は誤占とか正解以前の問題であった。そこで
(1)このまま放っておく、または手持ちの薬くらいで癒るように
(2)受信したら早くいい効果がある。病気がはっきりしていていい処置ができる
(3)どう処理したらいいか。軽症か重病なのか、方針
と考えるようにした。これは自分が判断に苦しむので得た智慧である。この占法によって判断への自信が非常に大きくなり、それまでの判断の呪縛から解き放たれて、過信と感じるぐらい闊達になった。相場や投資もまわりがあきれるほどよかった。もちろん誤占もあったが、それを十分にカバーするだけのいい結果を得た。占断篇は、分占法に用いられるように述べた。
易は転ばぬ先の杖である。だから自信のある人は、杖を軽くみる。いろいろあった人はすがりつく。これら一つの生きかたは間ちがっているように思える。健康であったり、ふ つうにやっている人が上手に用いると効果の上がるのが杖である。
入門篇は判断に必要な約束ごとを基本から詳述した。
占断篇は卦辞、爻辞をすべて理解できるように精述した。
占例篇は判断例である。115例を用い構述した。
読者の病気占断に役立つと確信して、 世に問う小著である。
平成14年8月吉日 著者
『病占入門』
易を病占へ活用するために
本書は、病気を感じる人が、このまま放っておいて心配ないか、早く医師に診てもらうといいか、どうしたらいいかをテーマとして、占うことを一つの柱とした。
すべてのもの事には、必ず裏と表があって、たとえば検診で問題のなかった人が、急に体調が崩れるという話はよくあって、一通りの検査ぐらいで安心するのはあまりに無防備といっていい。
この反対のばあいは、放っておけばなんでもないのに、あわてて医師に診てもらって、病気を作られてしまうことだってある。
そこで易を訓(よ)む人は、易の占断を賢く使うことで毎日を快適にすごせるようにしたい。
ことに乳幼児など、血色だけで判断をせまられるようなとき、
(1)放っておく(手持ちの薬でいい)
(2)受診する
(3)方針
このやりかたはこれまでどれほどの効果があったか、数えきれない成果をあげている。
次は、いま侵された、または罹った病気は
(4)悪い病気でないように
(5)軽く考えられない悪い病気のように
(6)どういった種類の病気であるか
の3点セットである。このばあい、占筮の結果を大事にしないと悔いをのこす。
理由は、医師の診断と易占の結果がちがうからで、易は「悪い病気ではないよ」といっても、医師は「悪い病気」という。このばあい医師は、本人のものより、他人のよく似た症状のデータをとりあげたり、次つぎとよく似た病気の話をして追い込んでいく。
なぜこういう問題が起きるかというと、患者が医学と医師に気おくれを感じるから、としかいいようがない。
本書は、易の入門書ではない。病気を判断する専門書である。だから易を知らない人が読んでもすぐには役に立たない。
それにしても占断法を書いた私と、本書を参考にされる読者との間には、判断力や解釈、卦爻の使いかたといった点に、距離があると思う。そこで、その距離の縮めかたについて次のように考えてみたい。
易簡(いかん)
易の判断に、はじめは一番簡短な方法を考える。病気なら医師に診てもらうことである。ところが近ごろの医師は、聴診器は使わないし、触診もしない。3分診療だから問診も簡短で、すべてを機器による数値で片づけてしまう。
私の生徒に、肝機能の数値の高い人がいて、医師はつねに酒を控えろという。この人はたまにしか酒を飲まない。最初は忠実に守ったが、毎度の話だから笑って聞いている。もともと肝機能の高い人らしい。こんなふうでは、受診するのも考えものです。
(以下本文に続く)