横井伯典について

「私のめざす易」 横井伯典

父顔写真

私は29歳のときに易と出会い、

その数か月後に日本開運学会を立ち上げ、易者人生をスタートさせた。

以来、60年間にわたり、占断をするとともに、後進の指導育成に努めてきた。

 

易は3000年以上も前の中国で誕生した。

そんな古代で生まれた人間の叡智を現代にどのように反映できるのか。

私の易は、そのことに取り組んできた歩みともいえる。

 

難解とされる易を、わかりやすく読み解くこと。

そして、生活を楽しむ手段として、誰もが手軽に使えるようにすること。

そのことに心を砕いてきたのである。

 

易経に書かれた言葉はこれからも変わらずに受け継がれていくが、判断は時代とともに変わる。

そのことを忘れると、生活の変化に対応した易占はできない。

そういう、時代の要望に合った解釈が自在に楽しめることも易の魅力なのである。

 

易をこれからはじめる人も、もっと深く知りたいという人も

易を通して、人生をより心豊かに送りたいという目的は同じであろう。

私が60年に及ぶ易者人生で到達した易占法が、皆さんのそうした願いに資すれば幸いである。


横井伯典(よこいはくてん)プロフィール

 

1925年4月25日東京生まれ。東京民事地方裁判所書記などを経た後、1954年7月に中村文聡氏に師事、その年の10月に日本開運学会を設立し、易者人生をスタートさせる。

以来、60年間に渡り、占断を続けるとともに、後進の指導に情熱を傾ける。伯典門下から巣立っていった人は、プロ・アマ問わず、数知れない。

「難解な周易を、暮らしの知恵として使えるように」という考えのもと、著書も多数発行。伯典流周易をあますところなく開示した1957年出版の「周易講義四巻」は改稿を重ね、2012年10月「最終講」として結実した。

テレビ、雑誌などマスコミでも幅広く活躍し、1969年から5年間にわたり、雑誌「週刊女性」誌に連載された「ズバリ!人相」は当時の占いブームの火付け役ともなった。当時絶大な読者数をもち、日本を代表するグラフ誌だった「アサヒグラフ」(1980年1月11日号)にも、その活動と占いへの考え方などが大きく紹介されるなど、まさに占いブームを牽引する代表者として注目を集めた。

2014年9月24日、89歳の生涯を閉じるが、他界する直前まで易占相談を行い、周易への情熱を燃やし続けた。伯典を知る皆様からいただいた、過分な賛辞がある。「伯典の前に伯典なし、伯典の後に伯典なし」。たかだか50本の筮竹にすべてを賭けた易者一筋の生き方に対して、これ以上のお褒めの言葉は見つからない。

ライカ父mg058補正

2010年頃撮影(築地鑑定所にて)

 

主な著書および著作物

『四柱推命本義』『赤ちゃんの命名法』『現代家相術』(主婦の友)『和暦利用術』(朝日ソノラマ)、『あたる易、あたらぬ易』『現代の易』『周易苑秘』『周易苑秘病占秘解』『周易小辞典』『用気術』『周易講義~最終講』(日本開運学会)など多数。また、実際の講義をCDに収録したものに『横井伯典 周易講義録』がある。


 


伯典ギャラリー

 

日本開運学会を設立

伯典の易者人生は、1954年の夏からスタートする。易を学んでから3日目に弟子をもち、2か月後には「日本開運学会」を設立した。写真は、相談者の迷いを断ち切る的確な易占判断と的中率の高さでたちまち頭角を現し、テレビや週刊誌などマスコミからも引っ張りだことなっていたころ、著者紹介用に撮影されたもの。(1969年頃)

伯典ポートレート

伯典が師事した中村文聡氏(故人)。中村氏は、周易もさることながら、手相観としても名高かった。

中村文聰氏

伯典の名前を確立した「周易講義」

伯典流周易を追及するとともにその普及を図るため、伯典は著書の出版に力を入れたが、伯典の名前と周易鑑定の第一人者としての立場を確立したのが、易者をスタートさせて4年目の1958年に書き上げた「周易講義」だった。

写真は初版本を発行してから10年目に大幅な改訂を施した、4巻からなる「周易講義」(伯典の著書で現存する最も古い書)。和綴じ装丁で、文字もガリ版による手書き。一文字一文字、魂を吹き込むようにガリ版を切って書き上げた。

和綴じ本和綴じ中面和綴じ_手書き部分

「周易講義」はその後も、周易の会得をめざすものたちのバイブル的存在として改訂を重ねた。写真は1978年に発行されたハードカバー仕様。

周易講義4巻

「周易講義」を書き上げるために読み込んだ本田済著「易」。手書きによる赤字が全ページにびっしり書き込まれている。易に取り組む伯典の情熱は、寝食を忘れるほど凄まじかった。

赤字の入ったテキスト

「周易講義」の最終地点となったのが、他界する2年前、伯典87歳のときに書き上げた「最終講」。初版を出版してから、実に54年がかりで到達した伯典流周易のエッセンスが結実された、渾身の書である。

最終稿

「周易講義 最終講」のカバーと表紙

最終講_元原稿

「周易講義 最終講」の自筆原稿

鑑定

鑑定においても、星の数ほどのお客さんが伯典の元に訪れた。伯典は相談の内容と判断を鑑定簿に逐一書き付けており、その数は何十冊にも及んだ。写真は伯典が愛用した筮竹と算木と、細かな字でびっしりと書き込まれた鑑定簿。

筮竹算木鑑定簿

占いブームの寵児として活躍

占いブームが起きた1970年代ごろ、伯典もテレビや雑誌に多数出演し、活躍した。テレビでは「桂小金治のアフタヌーンショー」(NET:現テレビ朝日で平日昼に放送)へのレギュラー出演、雑誌では「週刊女性」誌に「ズバリ人相」(写真)の連載などがあり、占いブームの寵児ともいえる活躍は、大手新聞社のグラフ誌にも大きく取り上げられた。

ズバリ人相.ギャラリー用

「週刊女性」誌に連載された「ズバリ!人相」。5年間も連載が続いた人気コーナーだった。

アサヒグラフ表紙中面1切り抜きグラフ中面2

伯典の活躍が大きく取り上げられた、朝日新聞社発行のグラフ誌「アサヒグラフ」(1980年1月11日号)。「現代占い考」のテーマの元、「80年代占いづくし・横井伯典師の占い講義・ルポ=占いの風景」として紹介された。(記事全文を「伯典よもやま話」に掲載しています)

 

後進の指導にも全力で取り組む

出版活動とともに、伯典が全力で取り組んだのが後進の指導、育成だった。伯典は易をはじめてわずかに3日後に弟子をもった。これは、人に教えることが自分の力を伸ばすことにつながるという伯典の信念に基づいている。そのため、講義では、現在持っている知識や考え方が惜しげもなく紹介され、その講義を聴くために門下生も全国から集まってきた。東京の築地鑑定所教室では、毎週3回、さらに研究科の講義も行われ、それ以外でも「主婦の友カルチャーセンタ―」での講義、名古屋教室などが開催された。

授業風景

「アサヒグラフ」(1980年1月11日号)に紹介された講義風景(主婦の友カルチャーセンターにて)



2011年、伯典86歳のときの講義の様子(築地教室にて)。年老いても、後進の指導育成に情熱を燃やし続けた。

日本開運学会の会報誌として、1975年に「履苑」を発行する。伯典が獲得した最新の考え方を反映した周易講義を中心に紹介する季刊誌で、周易の普及拡大とともに、会員同士のコミュニケーションづくりをめざした。途中2年の休刊はあったが、その数は伯典が他界するまで115号に及んだ。掲載された記事を元に多くの単行本が発行されるなど、伯典の出版活動の源となる役目も果たした。

履苑3

「履苑」創刊号(創刊号の巻頭言を「伯典よもやま話」に掲載しています)

 

伯典流周易の継承

伯典教室から巣立っていた周易愛好家は数知れない。中には、お弟子さんをとったり、鑑定をしたり、プロとして活躍している人も多い。伯典亡き後も、伯典流周易はそうした方々を通して広まっている。その意味では、伯典教室で学んだ方たちすべてが伯典流周易の継承者といえる。また、これから伯典流周易をはじめたいという方も、伯典が残した多くの財産(著書など)を活用すれば、60年に及ぶ易者人生の中で会得した伯典流周易のエッセンスを身に着けることができる。そういう意味では、これから周易をはじめられる方々もまた新たな伯典流周易の継承者といえるだろう。

「占断で最もたいせつなことは“どうなるか”ではなくて、“どうしたらいいか”です。占う時間内(一年間とか一か月間とか)をどうしたら平穏順調に、大難を小難に変え、小難を無難に過ごせるかです」と伯典は説いている。運勢に身を任せるのではなく、運勢を切り開いていくために、どうしたいいかを導き出すことが占断の目的というわけだが、自らの力で考えて行動するための指針を占断によって得るというこの発想こそが、伯典流周易の原点であり、真骨頂といえる。

日常生活の迷いを断ち、一人でも多くの方が豊かな人生を送ることを説いた、伯典流周易。こうした伯典の思いが、これからも多くの方たちに広まり、すべての方の人生に役立てていただけることこそが、伯典なによりの望みにちがいない。

周易をこよなく愛し、易者人生60年を全うした横井伯典の偉業を紹介するとともに、 伯典流周易の楽しさを広めることをめざしたホームページです。