
私が、占いの道に手を染めたのは昭和二十九年である。かれこれ二十年以上たったことになる。少し大袈裟だが、この二十年という長い年月、占いとは一体なんだろうと考えなかった日はなかった。世間には古くは忠君道とか、孝親道などがあり、現代では生産につながるものの一切が立派な道である。戦後の間もないころは、饑がもたらした人心の荒廃からか、直接生産的でない道は、一時的にすっかり影を潜めた。占いの道も行き絶え絶えになった。
浮き世は、陰陽の二つの要素から成り立っていて、生産的という陽ばかりでは、人は息がつまる、非生産的な陰の要素が、寛ぎといった形で必要である。たとえば、月である。月のもつ影響が農産物とか、自然界の生態に不可欠という話はきかない。しかし、物心両面の疲れを癒してくれるとして、珍重されてきたことは事実である。
占いの道は、月に同じではあるまいか。なくても、一向に困らない。世間には占いの活用、効用を説く人もいる。この理由は、慰めの効用、期待への活用であろう。
有史以来、月は人の心と歩みを共にしている。占いも、捨集経済・交換経済などの人間の歩みと共にあった。月は、観る人の心でさまざまに映る。占いも、占う人の心でいろいろと変わる。
幸いなことに、今日、占いは隆盛である。だが陰物、陰道が隆盛というのは、坤卦上六(龍戦于野。其血玄黄。其道窮也。)ではあるまいか。一人一人の占いの道を再認識しての行動は、月の知られない部分を窺うように、これからも占いの多面性と価値観を高めるものと思う。